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この年は、教祖にとって、いろんな問題が集中した、まさに、内憂外患の年でした。参拝者も、お届け帳に記載された分だけを見ても、明治二年には、一日平均、四十五人を数えていたのが、神前撤去の翌年からは、二十四人に減少し、さらに、十年には、十九人にまで落ち込んでいます。
年代別に見ますと次の通りです。
明2−45人、明3―48人、明4−35人、明5−30人、明6−欠、明7−24人、
明8−24人、明9−23人、明10−19人、明11−21人、明12−25人、明13−29人、
神道国教化により布教差し止めにあったことから、周囲の人々の段取りで、明治9年、県から条件付で神を敬う話はしてもよいという許可は受けましたが、官憲の取調べ、干渉は増し、連行されるという事態が起きてました。県の許可書を示し、萩雄が、警察各方面に出かけ、なんとか、「祈念祈祷はいかん。話すだけはよし」ということで了解を受けたのですが、天地書附も出せなくなり、書き溜めておくことになりました。
この頃のことを、「山伏の布教妨害は、横槍だったが、官憲の取締まりはどうしようもなかった」という伝承が残っています。
そういう中で、周囲は、村の役人とも相談しながら、合法的に布教できるよう、人を介して、家督を相続する次男の萩雄(山神)に村の氏神社の、神官の資格をとらせ、金神社を設立する計画を進めていきました。
これは、神様の喜ばぬことでしたが、村人達は、半ば強引に進めていったのです。しかし、神は、「人の世話にはなるな。今まで通り、話が出来ればそれでいい。それも出来んということになれば、仕方がない。仰向けになって、休息しておけ」と告げました。信者に理解話が出来ればそれでよい、それが出来ないなら、休憩するような気持ちで時節を待ち、あくまでも、天地金乃神の信仰を貫けと諭したのです。
この言葉は、なすすべもなく、思案に暮れる教祖に対して、神様の励ましとも取れます。教祖は、この時のことを、後日、「金光大神は、どうにもならないと言われれば、じっと寝入るような心持ちになるのであるから、あなたらもそういう心になるがよい」と伝えています。
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